どうか水源地という大切な場所を壊さないでください。どうか立ち止まってください。

3月9日(月)14時〜 千葉地方裁判所にて民事訴訟の結審が予定されています。

結審に先駆けて令和7年12月15日14時から、法廷にて原告側から意見陳述の機会がありました。

原告を代表して、君津市の須藤佳子さん、坂本好央さんから、それぞれ生活に深く関わっている「水」についてお話をいただきました。

ご本人の了解を得て、ここに全文を掲載いたします。

おふたりの思いに強く共感され、当日法廷を埋め尽くしていただいた皆様からは、大きな拍手が沸き起こっていました。

豊かな水に恵まれたお二人が住む街では いちごが最盛期を迎え、新酒の仕込みも準備万端で春を待つばかりです。


  

須藤 佳子さんの意見陳述

こうして水に対する思いを述べられる機会をいただきありがたく思います。

 お前の人生の“豊かさ”とは何だ?」と亡き父に問われたのは10年ほど前の30代後半、都内のレストランで店長として働いている頃でした。その時には、その豊かさの答えを明確に自分の言葉にすることができませんでした。

幼少の頃から父は厳しく、学校行事には一つも来たことがありませんでしたし、怒鳴られることも多く、多額の借金のこともあり、私は父とはほとんど口をききませんでした。18歳で君津を離れてから20年間、父と私の間には深い溝がありました。

 いつだったか忘れてしまいましたが、農業経営者という雑誌に父の記事が出ており、ある人がそれを私にくださいました。そこに書いてあった次のような文章に私は強い衝撃を受けたのを今でも鮮明に覚えています。

「高校を出て1年間東京の市場で働き、帰ってきて最初にやったのは井戸を掘ることだった。生活用水すら300メートルも下の井戸に汲みに行っていたほど水には苦労していた。お金を借りて掘った深さ150メートルの大きな井戸からは汲んでも止まらず、使い切れないほどの水は夢のようだった」、「畑にだけでは水がありあまり、大きな借金までして得た『水』という財産を何かに使いたい」。そうして私は、20代当初の父が考えた水で育てる農業の始まりを知りました。

親子崩壊しそうなほどの溝を埋めるために行われた家族会議で、またもや私は次のような父の言葉に衝撃をうけました。「子供が生まれたらこのままの農業では家族を食べさせていけない。あふれんばかりの水で何かできないか・・・年間を通して野菜を出荷でき、天候に左右されにくい栽培、それが多額の借金をして始めたガラス温室の水耕栽培だった。」

 私が記憶する限り、土耕で作っていたスイカや大根、ホウレン草などから5年ごとにガラス温室に切り替わり、増えていったように思います。私は、父が自分たちの事を考えていた事も知らず、父が水耕栽培を始めたきっかけも知らずにいました。

 冒頭で述べた「お前の豊かさとは何だ?」との問いとともに、父は私が君津に帰るきっかけを用意してくれました。40歳目前のころです。

 ソムリエとして、また人生の勉強としてフランスに行きたいと言った時も、背中を押してくれたのは父でした。その父の足を引きずり年老いた様子を見かけたときに、親子の溝は埋まらないまでも、見えないところで支え続けてくれた両親に恩を返せるチャンスは今しかないと、帰ることを決めました。農業はやらないと思っておりましたが、農業と食の融合した新たな直売所を作りたいと思いました。

 正直に申し上げると、都内で買う野菜が私には合わなかったこと、人が多い通勤に疲れてしまった事もあります。子供の時から畑から収穫してきた新鮮な野菜を料理するのが当たり前であったので、当然かもしれません。新鮮な野菜を当たり前のように食べられる事、これは私の豊かさのひとつの答えです。

 そんなきっかけをくれた父は4年前に約2年のがん闘病の末、他界しました。まだこの裁判が始まったばかりの頃、父は、体力が低下しておりましたが裁判に行くのだと力強く言っておりました。「俺の体力が続く限り裁判に行く」と。結局数回だけだったと思います。

「俺らのグループが農業で大きくなれたのは、豊かな水、きれいな水があるからだ。それがなければここまで来られなかった。だから水は大事なんだ! 水源地は守らなくてはならない!絶対に処分場は反対だ件!」と父はよく話しておりました。そのグループ農場は、現在、君津市の小櫃地区に3農場、亀山を含む上総地区に4農場あります。どこも井戸を掘り、豊富できれいな水を活かして水耕栽培をしております。そこに携わるスタッフは100人弱、その家族を考えればもっと大勢になります。

 私がこの水源地の問題について深く考えたのは、父が亡くなる少し前でした。

「俺がいなくなっても反対し続けろ、そしてこの農業を衰退させないでほしい」という父の思いは十分すぎるほど理解していました。資料を拝見して知れば知るほどとても水の豊かな土地であることがわかり、悲しみと怒りがこみ上げてきました。

私も大好きで当たり前だと思っていた美味しい自宅の井戸水、そして農業水耕栽培に欠かせない井戸水、また小学校の登下校時に途中で飲みながら歩いていた久留里の自噴井戸水。夏にはとても冷たくて美味しかったのを覚えています。これが当たり前ではなく清澄・三石山山系からくる自然の恩恵なのだと実感しました。本当に大きな財産を持った地域で産まれ育った事をこの年になってから知りました。

 小学校の時に学んだ水の話を皆さんは覚えているでしょうか。山に降った水がどんどんと地下深く浸透し、たくさんの地層を通って川へ流れ込み、生活に必要な水になるというとても当たり前の事。小学生でも知っているとても当たり前の事。でもなぜその山に処分場を作ってしまったのだろうかという疑問が消えません。そして、それがわかってもなお、立ち止まることすらできず、推し進めようとする人たちがいる事への悲しみも強まります。

 冒頭の「私の豊かさの答え」は父が亡くなってようやく自分の言葉で言い表すことができるようになりました。それは、この上総の地で父の遺志を受け継いで、農業を守り続けていくこと、従業員を守り続けていくこと、地元の皆さんとともにこの地を守っていくこと、皆さんが笑顔になれる里山を残していく事だと思っております。

 野菜は自然と人とが作るものです。昨今の気象条件で本当に野菜が作りにくくなっております。父が安定供給を求めたハウス栽培ですら、この猛暑に太刀打ちできず苦戦しております。そこにもしもこの大切な「水」が脅かされるようなことがあれば、風評被害にあえば、私たちの生業は終わります。

 そして、従業員やその家族、この地域で野菜や米、酒作りをする沢山の人たちが生きていけなくなります。この土地の道の駅や直売所の野菜を楽しみに買いにきてくれる年間何100万人のお客様はこの地に来なくなります。想像できますか? 沢山の農家を苦しめ、衰退に追い込み、直売所や道の駅で働く人々の生活を奪い、大切な観光資源である「水の町」、「酒蔵が集まる町」久留里を死んだ町にしようとしていることを。

 父が「俺が動ける限りは裁判に行く!絶対に反対だ!」と言った強い意志を私は忘れません。農業だけではありません。水に生かされている人間は絶対に水を守らなくてはならないのです。生きた水は大事なのです。

 今が良ければ良いわけではありません。その先の未来へ、ずっとずっと未来へつなげていかなくてはなりません。自分達だけが良ければ良いわけではありません。

周りの人たちに支えられて、自然に生かされて私たちは生きています。

どうか水源地という大切な場所を壊さないでください。どうか立ち止まってください。

最後に、私の人生の豊かさは、たくさんの人々と笑顔で、水と自然とともに生きていくことです。

                              以上


坂本 好央さんの意見陳述

 私の地区は久留里市場字上町といいます。上町自治会は40数件という規模ですが、町内に2件の造り酒屋があり当然大量の地下水を使用しております。

毎年1月下旬から3月頃の酒造りの盛んな時期には道路沿いの側溝を流れる水さえも酒の香りがするような所で育ちました。

 現在の私の水の利用についてですが、家庭内では主に小櫃川から取水した広域水道事業団の上水道を使用しています。地下水については国道410号沿いの昔から解放されている「高澤の井戸」に汲みに行き炊事に利用しています。

 地域の環境、特に地下水について関心を持ちこのような訴えを起こしたきっかけについてお話しします。

 私は20年ほど前から地域づくり活動に携わっております。当時、手始めに久留里の地域資源について地域内外の有志でそれを洗い出す作業から始めました。現存する昭和初期までの伝統的建築物、周辺の自然環境、久留里城やかつて栄えた地域産業などの歴史、地域をよく知るといった作業をかなり入念に行いました。

 その過程で、すべては水があってこそだと気づかされました。酒造りは言うに及ばず、明治大正期に関東一円で大いに使われていた久留里鎌をはじめとした鍛冶産業なども大量の水がなければ成り立たなかったことを知りました。

 しかしながら同時に明治中期以前の久留里は水の確保に大変苦労していたことも事実です。それは水源である小櫃川と人々の住む土地との間に高低差がかなりあり大量の水をくみ上げるのが困難なためです。そのためかつては私の住む上町自治会では山の斜面に70メートルほどの横穴を掘りそこに染み出す一滴一滴の水を集め大切に使っていました。また、新町という地区に史跡として現存しますが、広さは畳一畳ほどで深さ7メートルほどの穴を掘りそこに染み出した水を共同で利用していました。この水は当時久留里藩が特別に保護していたほど貴重なものです。

 そして、明治中期に何が起こったかというと上総掘りという井戸掘り技術が確立され地域の水事情に劇的な変化をもたらしました。それ以降は各町内自治会が上総掘りの共同井戸を掘り各家庭内に引き込み利用するようになりました。この水道システムは現在でも一部地区で使用されています。私が子供時代より見慣れた道路沿いにいくつもある自噴井戸や稲作地域に点在する自噴井戸の久留里地区特有の景観はこのようにして形作られたものです。

 また、当地区には近年都市部からの移住者がかなり増えています。移住者の方とお話をしてなぜ久留里を選んだのかお聞きすると皆さん第一に挙げられるのは環境の良さとお答えになります。そこで環境とはと重ねてお聞きすると、ほとんどの方が豊富な水とお答えになります。

 このような気づきにより当たり前にそこにあり文字通り捨てるほど自噴している水が私にとってかけがえのない大切なものとなったのです。

 上総掘りで掘られた井戸は新井総合から6キロメートルほど離れた久留里市場地区では深さは概ね600メートルから700メートルです。この豊富な地下水を運ぶ地層と新井総合との因果関係については今まで裁判の中で主張してきた通りです。また、現在も続く汚染物質の漏出についても重ねて主張してまいりました。

酒造りや農業従事者など生業に水が不可欠な方たち、日常の生活で地下水を利用している方たち、また処分場近くで簡易水道として長年地下水を直接利用している方たちさえもいます。その方たちも多くは知人であり友人です。

 思い起こせば、裁判という手段を選択する際に風評被害に対する懸念を持つ方が多くいました。しかし現在では重金属等に加え環境ホルモンの人体に与える影響も盛んに取り上げられています。これはひとたび実被害が出れば世代を超えた被害が生まれるということです。実被害が起これば地域や人々の暮らしをどのように壊してしまうのか過去の歴史が明確に示しています。

 これまでの私たちの示した証拠により第Ⅰ期処分場は現在も大変危険な状態であると、私たちは確信しております。速やかに安全な形で廃棄物の撤去及び移設を求めます。

地域みんなの当たり前の暮らしを守りたい一心です。

                                以上






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